まさか同じ本で2回記事を書くと思ってなかったんだけどいいの自分のブログだから〜〜
一周読んでびっくりしちゃったんだけど、やっぱりかなり人に影響される気質だったなあ私ってしみじみしたり
エナジーヴァンパイアって単語がかなりぐさっときたんだけどかなりそんな人たちにエネルギーを吸い取られているというか、自分から差し出してるというか、そんなことを気付いたの
もともとは福祉施設で働いてて、そりゃあ仕事だからねそのひとりひとりの子どもたちの特性や環境や背景を考えながら関わり方を学んだり実践したり深く深く考えようとして信頼関係を築こうとしちゃったんだけも
自分がかつてそうしてほしかったみたいに、助けて欲しかったみたいに、そんな気持ちがわかりすぎちゃうからこそ、生活の支援というところで自分とその子たちの境界線がわからなくなっちゃってたなってすごく実感して
私は働いちゃだめだなって実感してしまったのも大きな学び
そうかんがえると私が今まで関わってたこの本に書かれてたエナジーヴァンパイアと呼ばれる人たちとの関わりも
結局はへとへとになっちゃって少し自分が離れて、それを敏感に感じ取った相手から怒られたり不満をまたれたり縁を切られるって事例が多かったんだけど、思い返せばあれもこれも境界線何それ?って感じで相手の課題や心にずかずか入り込んでるだけだったなあ、それで自分から喜んで差し出してるだけだったなあって改めてしみじみしてようやくいろんなことに気づく
でもやっぱりそれは根っこを思い返せば幼少期からのこわいきもちとか、アダルトチルドレン系のもやもやで人と完全な関係がうまくできてなかったからそりゃあわからないよねっていうそれも納得で
むしろ色々あって納得の流れで小学生から不登校になってフリースクールだったけど、よく、ここから高校に戻って大学就職といけてここまでこれたなって自分を褒めたい気分だなって、おもったりもした
やっぱり1人じゃ生きていけないっていうのはすごくしみじみしてて、その場面場面で助けてくれたり手を差し伸べてくれる人は絶対いて、高校時代は部活の先生やともだちかなあそんな人の助けや優しさにとっても助けられてきたなって
逆にたいせつなその人たちはがつがつとこちらに踏み込んでくるとかそんなわけではなくて、ずっと見守っててくれて、いつ落ち込んで吐き出したとしても「話してくれてありがとう待ってたよ」って感じで助けを求めたら受け止めてくれるって感じの、境界線がしっかりしてた関係で楽だったなってしみじみしてて
この本の中にも痛みや苦しみに共感しすぎず回復を祈るって見出しがあってすごーく時間がかかったけど伏線回収???っていうか
そうだったんだ、っていろんなことがわかって気がしたの
見方を変えれば「相手が問題を自力で解決できることを、信じてない」ともいえる
っていう一言がすごく刺さって共有するね
人の問題はその人の学びなので、一緒になって心を乱すのではなく、相手の底力を信じて穏やかにそばで見守る、助けを求められたらその時できる範囲のことをする
っていう一言も刺さったよ
昔から悲しい時とかしんどい時とか、漠然と「誰か助けてよ」「誰かわかってくれ」って気持ちがあってそもそもこの「誰か」に助けを求めたりわかってくれたらいいなっていうのを望むっていうのが、勝手に期待したり逆もまた然りで苦しくなっちゃうし求めるのがそもそも間違ってたんだなときづく
「誰か」っていうのも誰でもいいわけではなくて、無償でひたすら嫌わずにずっとずっと全力の味方で愛情を与え続けてくれる親みたいな人、しかも男性に求めただったようなところあるからやっぱり両親が離婚して父親のトラウマというかなんというか、優しいお父さんっていうのは憧れで羨ましくてなんなら今も求めてるのかなとか漠然とねわろた
それもたぶん親と良好な関係を築けてる人だったら「誰か助けてよ」の「誰か」が何の疑問もなく親になるわけで、何の疑問もなく当たり前のように助けてもらって支えてもらって頼れてしあわせでそこからなんの問題もなかったと思うんだけど
そもそもその根っこからの考え方に違いがあって親の関係で敏感になる(略しすぎわろた)っていうのがなんだかとても腑に落ちたわけだな
自分軸で生きるっていうのはそういうことなのかな〜〜
でもたぶん前にも綴ったけど私が特に変わっててものすごく扱いづらいっていうのもわかるし親も親で親一年生だからお互いにぶつかる未来しかなかったわけだなっていう
のもわかる
なんていうか、うまくいえないけれど、人は人、自分は自分、自分のことを大切にっていうのをさらに意識したというか
根本の考え方が塗り替えられたというか、よくわからないけど
早めにこの気持ちや気づきを残しておきたくて、綴ってみたよ